書評:原啓介『測度・確率・ルベーグ積分 応用への最短コース』(講談社)

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2017 年 9 月 20 日に講談社から『測度・確率・ルベーグ積分 応用への最短コース』(原啓介著)が出版されました.タイトルからわかるように応用の人向けの測度論と確率論の入門書です.

どんな内容か気になったので書店で立ち読みしてきました.
それで幾つかこの本の特徴といえる点があると思いましたので,ここにまとめておきます.

立ち読みしただけで書評を書くというのはあまり褒められたことではないとは思いますが,
結構念を入れて立ち読みをしてきたのでご容赦願います.

まず,出版社と著者の書誌情報ページへのリンクを貼っておきます.
著者のページからは正誤表,前書き,目次が見られます.
『測度・確率・ルベーグ積分 応用への最短コース』(原 啓介)|講談社BOOK倶楽部

「測度・確率・ルベーグ積分 応用への最短コース」の情報 – 原啓介(HARA, Keisuke)


さて,どのように書評を進めていくかですが,まずこの本の概要を述べます.
次にこの本の特徴とそのメリット・デメリットを列挙し,その後,それらを総合してこの本が有益なものとなる読者層の検討及びそれらの人がどのようなスタンスで読むのが良いかについて私見を述べます.

本の概要

本の内容
タイトルの通り,測度論と確率論の入門書です.「応用への最短コース」とあるように数学のユーザー向けのミニマムな知識を提供することを目的とした本です.前書きを見る限り,具体的な想定読者は機械学習や情報科学の分野の人のようです.

本の構成
0章から7章までの8つの章からなります.0章はルイスキャロルのエピソードから測度論的確率論の必要性を説くというイントロになっています.1章から5章までは主に測度論一般の話題です.随所に関連する確率論の話題が挿入されています.6章は不等式の話です.この本で唯一の関数解析っぽい話です.最後の7章が確率論の章で,ここでは極限定理等の確率論の基礎的な話題がダイジェスト的に記されています.

特徴1:扱っている内容は基礎事項のみ,ただし網羅性は十分では無い

入門書なので当然のことですが,この本で扱われているトピックは最初から最後まで測度論・確率論の基礎事項のみです.ここに書かれていることは測度論・確率論を使うなら知っていなくてはならない事柄ばかりです.これは無駄なく学べるという点でメリットです.
また,現れる概念はすべて正確に定義されますし,手を動かして調べられる例が複数載っているのも良いです.

しかし気になるのは網羅性,つまりこの本だけで基礎事項は十分に学べるかです.
どれだけで十分かは読者によって異なるので一概には言えませんが,僕は少し足りないと思います.

測度論については単調収束定理,Fatouの補題,Lebesgueの収束定理,Fubiniの定理,積分と偏微分の交換定理,ラドン-ニコディムの定理などの測度空間一般に関する基礎事項は確かに網羅されています.

しかし位相空間と関連した話題が無いのが気になります.具体的には測度の正則性や連続関数による可測関数の近似についてです.これらは非常によく使うものですし,実数値確率変数の分布収束を論じる際にも必要です.せめてルベーグ測度についてだけでも,これらが書かれていればと思います.

確率論についての内容は本当に基礎的な部分だけで,恐らくこの本で確率論の入門書としての機能を果たすことは想定しておらず,基本的な枠組の紹介を目的としていると思います.
その観点で見る限りは特に不満はありません.

ただこの本では条件付期待値の説明を重視しているのですが,それであれば条件付き期待値が有効に用いられている確率論の話題があると良かったように思います.
例えば,マルチンゲールやマルコフ過程の理論の簡単な紹介や,disintegrationについての言及があると良いと思います.

しかしこれは僕の願望かもしれません.この本の前書きには機械学習や情報理論での確率論の利用について記されていて,それらについては条件付期待値の部分で例を挙げて丁寧に説明されています.
そういう意味で僕の意見は著者の目的にそぐわないものであるのかもしれません.

特徴2:証明が少ない

この本には多数の命題が現れますが,正式な形で証明が書かれているのは恐らく1割もありません.
ほとんどは,証明の「気持ち」を簡略に説明するか,単に「省略する」と書かれています.

これは理論を綿密に理解しようという人には向いていません.
しばしば定理の内容そのものよりも証明の考え方やテクニックの方が役立つからです.

しかし,応用の人は勿論,数学を学ぶ人にとっても,最初に理論の概略を知るうえでは有益だと思います.最初から証明を追って,細かい部分で詰まり,ぐるぐると考え続けているうちに力尽きるというのは誰にでもある経験だと思います.それを避け,とにかく何ができるかを知り,使ってみるというのは最初のステップとして有効です.この本はそれを可能にしています.これは大きな長所です.

一方で,数学は分からないなりに手を動かしながら証明を追っていく経験を積み重ねるうちに自然と使えるようになるという「慣れ」の側面があるので,入門書だからと言って詳細を省くのは必ずしも良いとは言えません.
しかしこれは上の長所と両立するのは困難ですので,この本の短所というのは不当でしょう.

特徴3:テクニカルな部分には立ち入らない

測度論には結構テクニカルに面倒な部分があります.多くは完備化や直積空間上の可測集合の切り口に関するもので,入門段階ではそれほど問題にならない部分ですが,Fubiniの定理では少し問題になります.この本では直積空間を完備化した場合のFubiniの定理は扱っていません.
他にも本来であれば,「a.e. (almost everywhere)」と書かれていなければならない部分に何も書いていなかったりします.一応脚注に簡略な注意はありますが.
これらは微妙なラインではありますが個人的には入門段階では混乱を防ぐために端折るのはありだと思います.

また,著者ページの正誤表に読者からの証明の不備の指摘とその返答が並んでいるのですが,その返答の中にはいくつか「面倒なのでサボりました」というような記述があります.このように証明の完全さよりも記述の簡明さを優先している点がいくつかあります.これは証明を厳密に理解したい人には迷惑な話かもしれませんが,そもそもこの本の証明の少なさからして,自己完結的なテキストを志向しているわけでは無いと思いますのでこれもデメリットとは言えません.

特徴4:ページ数が少ない

この本のページ数は160ページです.末尾の演習問題解答,参考文献,索引で30ページほどあるので,メインの部分は130ページ程でしょう.これはかなり薄いです.例えば薄い数学書である,裳華房の内田伏一『集合と位相』は200ページちょいです.これと比べても随分少ないです.文字もそれほど小さくありません.速習コースを想定しているであろうこの本においてはコンパクトさは美点と言えるでしょう.また寝転がって読んでも腕が疲れないのも良いです.

対象となる読者層と読むときの注意点

以上の特徴を踏まえて,どのような人にとってこの本が有益かを検討していきます.

第一の対象となるのはやはり確率論を道具として使う人です.
しかし,確率論ユーザーといっても一枚岩ではないでしょう.
少なくとも次の2種類はいると思います.

・ブラックボックスで良いから確率論で何ができるかが知りたい人
・応用分野の基礎部分の理解を深めたい人

前者に対してはこの本で十分だと思います.とにかくこの本を読み通して,必要に応じてこの本に書かれている主張を用いるというハンドブックとしての利用がいいと思います.薄くて軽いので持ち運びも便利です.

後者の人はこの本の知識で足りた場合はそれでいいと思いますが,足りない場合には,この本を通過してより詳しい本を読みましょう.この本を詳しく読んでも深い知識は得られません.そのため,あえてこの本を買わなくてもいいと思います.次により詳しい本を読めば,ほぼオーバーラップするようなことが書いてあるからです.この本はすぐに読破できますので図書館などで借りるので十分です.
勿論,この本を読んで恩義を感じたならば著者のためにも買うのが良いと思いますが.

第2の対象は測度論を学び始める人です.特徴2のところでも書きましたが,この本の1番の長所は数学的に正しい内容(少し証明が雑なところはありますが)で絶対に必要なものがコンパクトにまとまっていることです.理論の正確な理解はこの本でする必要はありません.具体例をきっちり理解するのを重視してさらっと読み通して,数学徒向けの入門書を読み始めるのが良いと思います.

あとは数学のことはあまり知らないけれど確率論についての考えがある人が読むのもいいと思います.上では言及しませんでしたが第1章にいわゆる「確率のパラドックス」などと呼ばれるトピックについてルイスキャロルを交えて説明しています.
この手の話題は度々,数学的に確率論をやっている人とそうでない人の間で論争になることですが,数学的に確率論をやっている人がどういう枠組みで話をしているのかを理解するのはプロトコルの相違による紛糾を避けることができ有益だと思います.
勿論,測度論的確率論が唯一正しい枠組みだというつもりはありません.

以上です.

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