書評:斎藤正彦『線型代数入門』(東京大学出版会)

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書誌情報

タイトル:線型代数入門
著者:斎藤正彦
出版社:東京大学出版会
線型代数入門 – 東京大学出版会

本の内容と初読の際のアドバイス

以下では主にこの本で取り扱っている内容の紹介をしていきますが, 初めての数学書としてこの本を手に取る人も多いだろうと予想してアドバイスを添えつつ紹介していくことにします.
タイトルの通り線形代数の入門書です. 結構古い本で初版は1985年ですが, 時代の流れで不要になった内容はほぼありません. 以下に目次を引用しておきます.

はじめに
まえがき
第1章 平面および空間のベクトル
第2章 行列
第3章 行列式
第4章 線型空間
第5章 固有値と固有ベクトル
第6章 単因子およびジョルダンの標準形
第7章 ベクトルおよび行列の解析的取扱い
附録I 多項式
附録II ユークリッド幾何学の公理
附録III 群および体の公理
あとがき
問題略解



1章は高校以来の平面ベクトル, 空間ベクトルの復習といった感じです. 高校でしっかり勉強してきた人なら概ね知っている内容ばかりです. この章の役割は平面や空間上の回転, 折り返し, 拡大・縮小といった自然な変換が行列を使って表せることを説明することで2章以降への橋渡しをするといったところでしょう.

2章から大学数学が始まります. 行列の定義, 行列同士の足し算・掛け算, 行列のスカラー倍などの基本的な概念を定義した後, 行列の基本変形へと進みます.  基本変形はランクの概念につながる(もちろん基本変形無しでも定義できますが)という意味で理論的にも重要であり, また1次方程式を解いたり, 逆行列を具体的に求めたりすることを可能にするという意味で応用的にも重要です. この本では基本変形は非常に丁寧に扱われているので難なく理解できると思います.  基本変形の後は内積空間やユニタリ行列などといった計量に関わる話を行列の場合に導入します. この本ではこのように計量つきのベクトル空間の話と計量無しの場合を並行して進めていきます. これは多少特徴的といえるかもしれません.

3章は「行列式」となっています. 最初は置換の話から始まるのですが, ここは恐らく最初に読んだときに誰もが「何が始まったんだ?」と感じるところでしょう. 唐突に群まで現れ, 面食らうかもしれませんが, それでも読み進めると行列式の話に入り, やっと置換が必要な理由が分かります. 多少不親切な感じは否めません. 行列式について扱っている内容は標準的です.

4章になると遂に一般のベクトル空間の定義が現れます.  1節では準備段階として集合の包含関係や同値関係などの説明が入りますが, 僕の印象としては何も知らない人が1節を読んでも何をやってるか捉えにくいような気がします. このあたりは特段難しいことではないのですが集合の抽象的な扱いに慣れていないと中々腑に落ちないものです. 「集合と位相」というようなタイトルの本の集合の部分などを読むと良いと思います. (この手の説明は「同値関係」で検索すればわかりやすい説明がすぐに見つかるかと思ったのですが意外とありませんでした. 近いうちに書きます.)扱われている内容は標準的ですが, これまでの章と比べて抽象度がぐっとあがります. これまではベクトルといえば「n次元ユークリッド空間の点」だったのが, ここからは単に「足したりスカラー倍できるもの」は何でもベクトルだということになります. 例えば実係数の多項式全体や実数上の連続関数全体などもベクトル空間です(これらは無限次元のベクトル空間です). しかし読み進めれば分かるように, 実はn次元ベクトル空間は(基底をとるごとに)n次元ユークリッド空間と同じだと思えるので, 抽象的な議論で何をしているか分からなくなったらn次元ユークリッド空間の場合で考えてみると分かりやすくなると思います.
後半では計量の入ったベクトル空間を扱っています. この本には実計量線型空間をユークリッド空間、複素計量線型空間をユニタリ空間ともいうと書いてありますが, 後者はまれに使われることがありますが前者は聞いたことがありません. 内積空間や(プレ)ヒルベルト空間と呼ぶのが普通だと思います.

5章は「固有値と固有ベクトル」です. 固有値・固有ベクトルの概念はこの章で扱う行列の対角化や6章で扱うジョルダン標準形へとつながる重要な概念です. 5章での対角化の扱いはかなりあっさりとしています. ジョルダン標準形の理論が対角化の場合を含むより一般性のある理論なので重複を避けているという印象です. 対角化をさっさと終え, 5章は主にエルミート行列のスペクトル分解や2次形式を詳しく扱っています.

6章はジョルダン標準形の理論を扱っています. ジョルダン標準形の扱いには大きく分けて2つの方法があり, 1つは不変部分空間の概念を導入し, ベクトル空間を広義固有空間の直和に分解し, それぞれの広義固有空間の上で冪零変換の標準形を求める問題へと帰着させる方法, もう1つは単因子論と呼ばれる方法です. 単因子論は可換環や環上の加群の理論などの代数系の知識が必要になるため, 多くのテキストでは不変部分空間の方法を扱っていますが, このテキストは単因子論を採用しています. ただし可換環や環上の加群の理論を陽に用いるのではなく証明に必要な分だけ現地調達するという感じです. 1つ1つのステップ自体はそれほど難解ではないので読めないことはないと思いますが, 大局観はつかみにくいです.

7章はユニークな内容です. 関数解析のさわりの部分といえるでしょう. 必須の内容ではありませんが, 線型代数の射程の長さを示す良い例なので読む価値はあります. 扱われているのは行列の指数関数やペロン・フロベニウスの定理などです.

総評

まずこの本の長所についてです. この本は始めて数学書を読む人でも困らないように色々と配慮されています. 例えば1章で平面・空間ベクトルを復習する点, 随所に集合や写像の基本事項の定義が書かれている点, 付録が充実している点などがあります. これらは本来予備知識として想定しても良いはずのものですが, 初学者にとっては複数の本を参照しつつ読むのは少し大変かもしれません. その意味でこの点は有益だと思います.
他の長所としては上にも書きましたが基本変形の説明が非常に丁寧な点が挙げられます. 基本変形は入門段階の線形代数において最重要事項の1つですからこれは大きな長所です.
また網羅性も入門書としては十分で, 最低限必要な内容は全て抑えてあります.

以上のように長所はいくつもあるのですが, 実のところ短所の方が目立ちます.
この本は長所で述べたように予備知識が無くても読めるようにかなりself-containedに書かれていますが, 質的な面での配慮はほぼありません. 概ね定義・命題・証明が淡々と続くばかりで初めて学ぶ人は, どこに行きつくか見えないままひたすら議論を追っていくことになります. 例えばそれが顕著に現れているのは3章で, 冒頭でいきなり置換が導入され, 行列式の定義へと進むのですが, この間これらの概念がなぜ必要なのかの説明は全くありません. 後半の余因子行列のところまで読んでやっと行列式の定義の根拠が分かるといった調子です. もう少し配慮があってよいと思います. 例えば章の最初にクラメルの公式を用いた連立1次方程式の解法をダイジェスト的に説明すれば行列式の必要性や行列式と正則性の結びつきが自ずとわかり, 見通しをもって先を読んでいけると思うのですが.

また内積空間と通常のベクトル空間を並行して扱うのは多少分かりにくいです. 例えば「5章固有値と固有ベクトル」では序盤に通常のベクトル空間における対角化を扱い, 後半では正規変換のスペクトル分解を扱っています. これらは確かに共に固有値・固有ベクトルが重要な役割を果たす内容であり, いずれも線形変換を互いに直交する固有空間への射影の線形結合へと分解するという意味でかなり似通ってはいるのですが, それぞれの場合で射影の定義は僅かに異なり, これによって議論も大きく違ってきます. また内積空間と通常のベクトル空間は現れる場面が大きく異なるので「固有値・固有ベクトル」というような緩やかなつながりで括ることにあまり意味はなく, 明確に切り分ける方が分かりやすいです. 具体的には最初に内積無しのベクトル空間の理論を一通り展開し, その後に内積無しの場合の一般論を援用しながら内積空間の議論をするのが良いと思います.

この本の一番の欠点はジョルダン標準形の扱いです. 単因子論を用いること自体は全く問題はありません. むしろ最も簡潔にジョルダン標準形へと至る道だと思います. ただし単因子論を用いるならば環上の加群の言葉で整理するべきです. より具体的にはPID上の有限生成加群の構造定理を用いるべきです. この本ではこれらの一般論を全く扱わず, 一歩ずつ手探りで進むような議論になっています. このため証明を追うことはできても, その背後にある構造が全く見えません. ジョルダン標準形については単因子論を適切に用いれば非常に明瞭な理解が得られるものなのでこれは大きな欠点です. 実はこの本の筆者も単因子論を用いたことに関してあとがきで「本書の大きな弱点」と述べています.

総合的に見て, 今この本を敢えて選ぶ理由はないと思います. やはりジョルダン標準形の扱いがかなり痛いです. 他の点については際立って悪い点はありませんが, 際立った長所もありません.  ただ値段が安いのは特筆すべき点かもしれません(1900円+税). お金に余裕のある人は他の入門書を選ぶことをお勧めします.
最後に補足としてジョルダン標準形についてわかりやすく解説してある本を2冊紹介しておきます.
不変部分空間の方法を用いた解説は草場公邦『線型代数 (増補版)』(朝倉書店)の解説が非常にわかりやすいです.
単因子論を用いた解説は環上の加群を扱う本なら大抵は載っていますが, 堀田良之『加群十話』(朝倉書店)は異様に手際の良い説明が乗っています. この本は後半で表現論の基礎的な内容まで書いてありお得な本です.

書評:斎藤正彦『線型代数入門』(東京大学出版会)」への1件のフィードバック

  1. 坪井 正行

     私は静岡県浜松市在住の坪井正行というものです。退職後、学生時代になおざりにしてしまった数学を学び直しています。斎藤正彦著「線型代数入門」を46年前に教科書として学んでいました。当時は十分理解できないまま単位を取るだけの学習しかしませんでしたので、心残りのまま虚しい人生を過ごしてきましたが、やっと隠居生活で時間ができ、暇つぶしにと黄ばんだ本を引っ張り出して読み直すことにしました。納得できるまで次には進まないということを自分に課して読み進めてきて、一年かけてやっとJordan標準形の証明までこぎつけました。尤も、Jordan標準形の証明は、ご本人が別の証明を与えたという斎藤正彦著「線型代数演習」を読んで理解しました。この本は初版から一度も改訂されることなく、重版を重ねてきたということで、誤植もないという評価です。ネット上にもそうした記事も見当たらず、現在も多くの大学の教科書として採用されているようです。
     しかしながら、精読してみたところ、途中、何点か誤植があることに気が付き東京大学出版会に問い合わせをしたところ、単純な間違いについては重版時に訂正するとの回答を得ましたが、いくつかの点については、著者に回答を求めたいということで保留となっています。斎藤先生は既に88歳というご高齢で体調も思わしくないとのことなので、おそらく編集局としても今更先生への問い合わせをすることは躊躇しているのではと推察しているところです。
     50年以上重版を重ねて改訂がない定番の教科書に本当に誤植があるのか、私のような年金生活者が言うのもおこがましいとは思いますが、レベルが低すぎて誰もまともには取り合わないだけのものなのか、私の誤読なのか、数学に精通されているかたのご検討を仰ぎ、返信をお聞きしたいと願っています。私が見出した点は以下の通りです。

    <斎藤正彦著「線型代数入門」の回答保留となっている疑問点>

    (1)36ページ第2章[1.5]の4行目「とくにB=Eとして A=(Ae1 Ae2 …Aen)」とありますが? A=(Ae1 Ae2 …Aen)はA=(Ae1 Ae2 …Aem)ではないでしょうか?? AE=Aから導かれていますが前提ではAは(l,m)型行列でEは単位行列ですから(m,m)型でないと積は成立しませんから E = Em = (e1 e2 …em)としなければならないと考えます。

    (2)93ページ第4章§1の正方行列の相似関係についてです。P^-1AP=Bの関係があるときAとBは相似でA~Bで表わし、1)反射律 2)対称律 3)?推移律が成り立つとして証明が与えられています。対称律と推移律の証明についてはすっきりと納得できるのですが、反射率の証明「 A=E^-1AE 」が自明なものとして与えられています。見れば確かにP=Eであれば問題ないのでそんなものかなとは思うのですが、Eが唐突に与えられて思い付きのような気がします。
    私見では、43ページ11行目の命題[2.5]で「すべてのn次正方行列と交換可能な行列はスカラー行列に限る」ことが証明されていますから、これを使えば証明が可能です。
    即ち、正方行列Aが自身と相似ならば A=P^-1AP ⇔ PA=AP となって AとPは交換可能です。命題[2.5]により P=cE を代入すると PA=AP ⇔ (cE)A=A(cE) ⇔ cEA=cAE ⇔ EA=AE ⇔ A=E^-1AE となります。

    (3)94ページ第4章§1の11行目例1 「座標系のない空間・・を考える。そこでの矢印・・・A^3[A^2]とする。Aの二つの」とありますが、「Aの二つの」は「この空間の二つの」ではないでしょうか。

    (4)154ページ10行目「y=Px」は「x=Pyとなるy」または「y=P^(-1)x」ではないか 「y=Px」の表現は前後の脈絡からも混乱するのではないかと心配です。

    (5)第五章§6の166ページの系[6.2]と167ページの系[6.2]’の関係では、(2)の行列を「線型変換のことばで言換えれば」ということで、(3)(4)の式が示されています。私の単純な計算では「 sinθ 」は「 sinθj」 に、「 cosθ」 は「 cosθj 」となります。
     すなわち167ページ4行目 「Te2j-1 = cosθ・e2j-1+sinθ・e2j」は「Te2j-1 = cosθj・e2j-1+sinθj・e2j」 167ページ5行目 「Te2j = -sinθ・e2j-1+cosθ・e2j」は「Te2j = -sinθj・e2j-1+cosθj・e2j」ではないでしょうか。

    <「線型代数入門」の単純なミス?で編集者の権限で重版時訂正すると回答があった点>

    (1)63ページ最終行最後尾「,」は、「.」ではないでしょうか?

    (2)131ページ下から1行目 「相異する」は「相異なる」の誤りではないでしょうか?

    (3)140ページ下から4行目[2.2]証明中の「定理」は、「命題」ではないでしょうか?

    斎藤正彦著「線形代数演習」に関する疑問点は、この書評の対象ではありませんが、関係個所としてご検討いただければありがたいです。

    <斎藤正彦著「線形代数演習」2006年2月15日第15刷の回答保留となっている疑問点>

    (1)88ページ8行目「 Φ(A;A)=Φ(B;A)=Φ(B;PBP^-1)=P^-1Φ(B;B)Pだから 」 は 「 Φ(A;A)=Φ(B;A)=Φ(B;PBP^-1)=PΦ(B;B)P^-1だから 」ではないでしょうか。
     私の補足計算 Φ(A;A)=(A-α1E)(A-α2E)…(A-αnE)=(PBP^-1-α1E)(PBP^-1-α2E)…(PBP^-1-αnE)={P(B-α1E)P^-1}{P(B-α2E)P^-1}…{P(B-αnE)P^-1}=P(B-α1E)(B-α2E)…(B-αnE)P^-1=PΦ(B;B)P^-1  ∴Φ(A;A)=PΦ(B;B)P^-1

    (2)88ページ12行目「 Φ(B;B)=0(数字のゼロ) 」 は 「 Φ(B;B)=O(大文字のオー) 」ではないでしょうか。

    (3)問題解答264ページ20行目 「(T-αI)^(p+1)x ≠ 0」 となっていますが、「(T-αI)^(p+1)x = 0 」ではないでしょうか? T-αI が冪零変換なので、「p」で「≠ 0」、「p+1」で「=0」となると考えます。

    大変お忙しい中、突然の質問で恐縮です。独学の私の観点が正しいかどうか、不安が払拭できないままでおります。かといって周りにこんなことを相談する相手もおりません。どなたかおひとりのお考えでもご返信いただければ幸いです。よろしくお願いします。

    返信

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